僕が死んでもブログは残る

こんにちは!タリン(@rintalog)です!

 

僕が死んでもブログは残る。

 

唐突にパワーワードをぶち込んですみません。

死にたいとかそういうわけじゃないです。

明日も全力で楽しんで生きたいです。笑

 

なんでこんなことを言い出したのかというと、ちょっと最近考えていることがありまして。

それは「生」と「死」なんですよね。

 

いや、なんか宗教染みてるとかそんなふうに思わないでください。汗

 

ちょこっと哲学的な感じになっちゃうので、読みたくない人は読まなくて大丈夫です!

もうこれは僕の超勝手な個人的な考えで、ちょっと残しておきたいなと思ったので書いてみただけです。

 

生と死が切り離されている

 

生と死

 

このワードをきくとなんだか深いことを想像する方もいると思います。

僕はそんなんじゃないです。笑

 

生と死ってなんだか現代では遠ざけられているというか。

なんだかあまり生と死を実感する場面って少ないなあと思ったんですよ。

 

赤ちゃんは病院で生まれるし、死ぬときも病院で死ぬしみたいに、病院内で生と死が完結する感じになっているような気がするんです。

僕のまわりはそんな感じです。

これはもちろん住んでいる地域だとか国とかでまったく違います。

事故で亡くなられた方もいるでしょうし、家で生まれた子もいます。

 

ただあくまで僕の生活の中で、生と死を実感する場所は病院という建物しかないんですよね。

その病院でさえ僕はほとんど行きませんし、生と死を実際に目のあたりにしたことはないです。

お医者さんとかは別だとは思いますが…。

 

こんな感じで僕の生活の中には生と死が切り離されているんですよね。

始まりと終わりが見えないという、なんだか無限ループの中にいるような感覚です。

ウロボロスの中にいるようなイメージですかね。

 

例:僕らがたべている食材はどうやって作られているのか?

 

僕らは普段から食事をしていますよね。

栄養補給のため、生命維持のため、五感を楽しむため、コミュニケーションを調和するため。

いろいろな食事が現代には存在しています。

 

ですが、その僕らが普段食べている食事の食材たちはどうやってつくれれているか知っていますか?

 

たぶん頭ではわかっていてもイメージがつかないと思うんですよね。

なんたって生産→加工→流通→販売までが見えないようになっていますから。

 

機械化が進み食の工業化が進んでいる現代では工程を知ることはなかなかむずかしいです。

この過程がブラックボックス化しているので、余計に僕らの生活から生と死が切り離されているんだと思います。

 

食事は毎日しているはずなのに。

 

生と死はもっと身近にあるもの

 

でも本来生と死はもっと身近にあるもののはずなんですよ。

 

昔人間が狩りをしていたころは生きるために動物を殺して、食べてを繰り返していたはずです。

そして集落内で新たな命が生まれていたはずです。

 

このように生と死はもっと身近に、というよりもう日常生活を形成するひとつのパーツだったと思うんです。

機械の中の歯車のような感じです。

 

その仕組み自体は今も変わっていないのは確かなんですが、僕の生活の中ではなんだか歯車が見えないんですよね。

でもそれは場所が変わっただけで今でも日常的に生と死は存在しているんです。

 

生まれては死に、生まれて死に。

この繰り返しは実際におこっています。

 

実は不死は実現できるのではないか?

 

ここで僕が死んでもブログは残るというワードを説明したいと思います。

 

僕は最近毎日ブログを書いています。

僕の考えたことや僕の感じたことなんかを残していっています。

 

日常をコンテンツ化していっている感じです。

有名ブロガーの方ほどその傾向は強いんではないでしょうか?

そこで思ったんですよね。

 

「あれ?これ俺の考えていることとか全部ブログに書けば、俺の頭脳をそっくりコピーできるんじゃね?」

 

そして、インターネットが何かとんでもないことが起きない限り永久にデータだ残ると仮定すると、そこにあるのは肉体的な死だけです。

それはつまり「不死」を実現できるということなんではないか?と思ったんですよね。

 

優秀な研究者は教育に力を注ぐ

 

僕は研究者でもなんでもないただの学生なので、研究者の方がどう考えておられるかはわかりません。

ただ、優秀な研究者の方は教育に力を注ぐんではないかな?とふと思いました。

 

そりゃ自分が研究をしたほうがいいとは思います。

学生なんかより自分のほうが何百倍も研究者として能力が高いんですからね。

 

ですけど、超絶熱心で最高の偉大な研究者でも逆らえないものがあります。

それは『死』です。

 

細かく言うと『肉体的な死』です。

これにはどんなひとも現在は逆らうことができていません。

(そのはず…。)

 

肉体的に死を迎えると研究を続けることができませんよね。

それを解決するのが若い人たちを育てるということです。

 

若い人を育てれればその研究は若い人に引き継がれて、研究者の肉体的な死から逃れることができます。

研究は継続されるのです。

 

そうやって人類は少しずつ発展していったんだろうなと思います。

だから優秀な研究者の方ほどというより、研究を愛しているひとほど教育に力を注ぐのは至極当然だと思いますね。

 

つまりデジタルの情報がが半永久的に残ると仮定すると、もうすでに半分くらい不死を実現できているような気もします。笑

そこに個人の意識はないかもしれませんが、意思や思考は受け継がれるはずです。

 

【生と死】まとめ

 

なんかちょっと哲学的な感じでよくわからない感じになってしまいましたが、このブログは僕の考えを反映させる僕の分身でもあるので、とりあえず書いてみました。

 

まとめって感じじゃないですけど、これからもブログは更新していくしブログを日々アップデートしていきたいと思いましたね。笑

 

ちょっとおわりかたがあれですけど…。笑

 

ではまた!

 

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ABOUTこの記事をかいた人

大学生・ブロガー 月間PVはまだまだ低い当ブログ【Rintalog】を運営。 大学入学当初は何をしてよいかわからず、とりあえず本を読んだりしていました。 その後、人と話すときにインプットした内容がうまく話せず、インプットだけではダメだと痛感したので、アウトプットの手段として当ブログを2017年11月末に開設。 2020年4月からWeb系エンジニアとして働きます!